佐藤良子对中日的茶文化研究颇深,专门来上海学习茶叶技艺,并取得了高级茶叶审评师的资质,经常组织日本茶客到紫笋苑开展茶艺品茶活动,并称其为紫笋茶会。《紫笋茶缘》完稿后,专门请她审读。下文是她的读后感。
《紫筍茶缘》成书寄说[1]
首先衷心祝贺陈明楼先生《紫笋茶缘》一书即将出版,这是陈先生40多年来对紫笋茶一如既往的热爱而收获的成果。书籍可以传承,由衷为此书出版感到欣喜。
我叫佐藤良子,是60后日本女性,自从和陈先生相识后,多年来我们超越了国籍、性别、年龄、职业经常一起进行交流、探讨,有时自己也觉得不可思议,此段缘分从何而来?这要从日本茶文化开始说起。
20年前我随丈夫来到中国,那时的上海正是经济高速发展跨入现代化城市的阶段,高楼大厦像雨后春笋般地拔地而起。不仅仅是城市,人们的面貌也发生了巨大的变化。女性穿裙子了,更多女性开始化妆了,人们争先恐后地走出国门开始海外旅游了,名牌服装、名牌包包、高级轿车随处可见。上海街景迅速地发生了变化,但也有不变的地方,那就是陈明楼先生经营的“紫笋苑”茶室,它在上海这个都市森林中泰然处之。
我带过很多日本朋友去陈先生的茶室,日本瑜伽老师称赞道这里风水真好;又有朋友感叹地说:“不敢相信这儿是上海,简直就是仙人之居”。大家都很惊讶在上海这样一个大都市中心竟然还有一家这么隐秘的茶室。
我在日本学过茶道、花道,所以我知道饮茶文化是从中国传入日本的,来到上海后我就开始探索它的起源。茶文化从中国传至日本分为三个阶段:第一阶段是日本的平安时代前期(800年初),从唐朝引进了煮茶的饮用方法;第二阶段是日本镰仓时代初期(1100年后期),从宋朝引进的打抹茶的饮茶方法;第三阶段是日本的江户时代前期(1600年后期),从明朝引进了茶叶冲泡后饮其汤汁的饮茶方法。
这里我想主要谈一下第一阶段传入日本的煮饮文化。它是从9世纪(约1200年前)唐代陆羽的《茶经》传入日本后人们把团茶研磨成粉末品饮开始的,这些在日本的汉诗中都有描写,证实了平安时代日本人已经在饮用唐代陆羽《茶经》中所写的固形茶。公元814年在小野峯守·菅原清公·勇文继献给嵯峨天皇文的勅撰汉诗集《凌云集》中又有吟诵室内煮茶的烟雾和茶香飘逸的场景,这种捣茶和煮茶的方法与《茶经》中所记载的固形茶的制作法和饮茶法相一致,由此可推测当时日本已学会了制作固形茶,并且把它研磨成粉末后煮饮。那么猜测一下当时传入日本的茶原料产自中国何处?是不是当时的贡茶紫筍茶呢?有关日本最古老的茶史料《日本后记》(815年)中有这样一段记载:有一天嵯峨天皇一行离开行幸地滋贺县大津市唐崎(现名)后,又去了比叡山麓的崇福寺和紧邻的梵釈寺。梵釈寺的住持大僧都水忠亲自煎茶敬献给天皇。这里可以推测当时的茶是煮后品饮的。
日本曾经派出留学僧侣去中国(当时的唐朝)学习最先进的中国文化,这批人被称作遣唐使。他们把学到的知识带回了日本寺院,茶和茶文化就是其中的一项。当时的寺院就像一所综合大学,传播着最先进的文化与技术。日本人非常憧憬和崇拜中国文化,当时优秀人才都拚命地学习、模仿和实践。这段历史就是我想探索的日本茶文化的起源,我意识到去中国学习茶道就是摸索日本综合艺术茶道起源的最佳途径。
2000年我来到了上海,得知中国把茶道叫作茶艺。并且听说有茶艺师国家技能资格考试,于是我去了天山路上的上海职业培训中心报名学习茶艺课程。在茶艺学习过程中,我又得知中国还有茶叶审评这项有趣的学问,我又报名参加了茶叶审评师的学习。就这样我从初级审评到中级审评,最后在2008年9月进入了首届高级审评师班(共29名学员),数年一起学习的同学中就有陈明楼先生。我们班同学的年龄参差不齐,职业也各不相同,有中医医生、也有公司职员。陈明楼先生是一位有着丰富阅历的公司干部,他理所当然地当上了我们的班长。和蔼可亲的陈明楼先生热情帮助班里的每位同学,丝毫没有看轻我这个外国人,经常课后给我补课,耐心地给我解释课堂上的内容,并且还传授给我很多课本上没有的知识。那时候陈先生已经有20多年的紫笋茶研究经验,经常借车带同学和老师去紫笋茶产地实地考察学习,参观紫笋茶制茶全过程;陈先生还带我们去体验农家乐,当时农家乐可是个新生事物,我们是最早享受到农家乐的人群。
首届高级审评班29位学员、包括班主任共4位老师,大家都非常尊敬陈明楼先生,亲切地叫他“陈老师”。陈老师拿到高级茶叶审评师资格后,在上海茶叶学会致力于紫笋茶的宣传,为了提高紫笋茶的知名度,经常带上海客人穿梭在产地浙江长兴的茶园中。在种类繁多的中国茶叶中陈明楼先生对紫笋茶情有独钟,他追逐紫笋茶整整40多年。在他身上看到了类似日本匠人的姿态和精神。称他为“紫笋茶大师”一点都不为过。
在高级茶艺师学习的时候,遇到了一首好诗。唐元和六年,卢仝收到好友谏议大夫孟简寄来的茶叶,邀韩愈、贾岛等人在桃花泉煮饮,写下了著名的“七碗茶歌”。卢仝的茶歌所表达的饮茶感受,不仅仅是口腹之欲,而是将“竹串子茶”的药理、药效融入其中。醒神益体、净化灵魂、激发文思、凝聚万象、制造了一个妙不可言的精神境界。
一碗喉吻润,二碗破孤闷。
三碗搜枯肠,惟有文字五千卷。
四碗发轻汗,平生不平事,尽向毛孔散。
五碗肌骨清,六碗通仙灵。
七碗吃不得也,唯觉两腋习习清风声。
当我读到这首诗的时候脑海里首先浮现出的是紫笋茶。在数以千计的中国茶中为什么首先想到了紫笋茶,有以下七个原因:
一是紫笋茶有着悠久的历史,它是十大名茶之一。
二是唐代陆羽推荐的第一号贡茶。(有第一或第二号贡茶之说)
三是紫笋茶与“七碗茶”诗年代一致。
四是有关紫笋茶的故事很多,它是一款充满浪漫的历史名茶。
五是紫笋茶干茶看上去很普通,经过冲泡汤汁晶莹清澈,宛如仙茶。
六是紫笋茶有着清爽的滋味、气爽的香气,神清的魅力。
七是陈明楼先生写过许多有关茶的诗句,“听雨声如磬清心无我,观翠芽似笋怡神有茶”尤为传神,已经深深地印在了我的脑海里。
紫笋茶的冲泡方法很简单,把茶叶投入玻璃杯里,再注入热水。茶叶开始慢慢地舒展,在水中翩翩起舞,极具观赏性。
近来冲泡绿茶也用像冲泡乌龙茶那样的工夫茶器具,精致可爱(盖碗或紫砂壶、公道杯、小品铭杯),冲泡紫笋茶也常用此种器具。只要接触过中国茶艺的日本朋友都会被它所吸引,大家都会迷上紫笋茶,真是妙不可言,值得庆贺!
衷心地期待通过陈明楼先生《紫笋缘记》一书的出版,让更多人了解紫笋茶,让中国名优紫笋茶能进入世界的视野。
祝陈明楼先生身体健康,事业蒸蒸日上!
附原文
陳明楼老師 《紫筍茶縁》祝出版 寄稿文
2020年11月吉日
この度は陳明楼先生による著書《紫筍茶縁》のご出版を心よりお喜び申し上げます。
陳先生の紫筍茶に対する40年以上の変わらぬひたむきな情熱が実を結び、書物となり後世へ引き継がれることを大変嬉しく思います。
日本人女性である私が、国籍、性別、年齢、職業を超え、なぜ陳氏と出会いそして長年にわたる交流を続けられているか。
また日本の茶文化の源流について、この場を借りてご紹介させて頂ければと思います。
私の名前は佐藤良子。1960代生まれの日本人女性。2000年、今からちょうど20年前に夫と共に上海へやってきた。
そのころから上海は急速な経済発展で高層ビルがにょきにょきと建つ先進都市になった。上海に住む中国人の暮らしもどんどん変わった。女性の服装はズボンからスカートへ、また多くの女性が化粧をするようになった。そして競って海外旅行をし、セレブ達はスーパーブランドを身につけ、高級車を乗りまわす。
景色がどんどん変化する上海で今も変わらないものがある。それは、紫筍茶に魅せられた陳明楼氏が運営する茶室《紫筍苑》である。上海の都会のジャングルにひっそりたたずむ紫筍苑。
上海でここだけが時がとまったかのようである。
私はこれまで多くの日本人を陳氏の茶室へ案内した。
大阪で活躍するヨガの先生は、ここはなんて風水が良い場所でしょう!と。また友人達は、本当にここは上海なの!?まるで仙人の家みたい。と言った。
皆が一様に、上海の中心部にこのような隠れ家の的な茶室があることに驚いた。
日本で日本茶道と日本華道を学んだ私は、中国から喫茶文化が伝えられたことを知っていた。そこで、この上海でその喫茶文化の起源を探求してみたいと思った。
日本へは過去3度当時の先進国である中国から喫茶文化が伝え
られた。一度目が平安時代前期、西暦800年の初め。中国の唐から茶を煮だして飲む方法が伝えられた。
二度目が、鎌倉時代初期、西暦1100年代後半、中国の宋から抹茶に湯を浸し攪拌して飲む方法が伝わった。
三度目は江戸時代前期、西暦1600年後半で中国 明から茶葉を湯に浸しそのエキスを飲む方法が伝えられた。
今回はこの一度目の日本への茶の渡来に注目してみよう。
日本の喫茶文化は9世紀(約1200年前)に、唐代 陸羽の《茶経》や日本の漢詩に書かれたように、中国の唐から、団茶とそれを粉末にして飲む喫茶方法が伝えられたことに始まる。
中国 唐時代、陸羽の《茶経》にみられる固形茶が平安時代の日本で飲まれていたとする説を物語っているのが、日本の漢詩の中に出てくる茶の描写である。814年小野峯守·菅原清公·勇山文継が嵯峨天皇に撰進した最初の勅撰漢詩集《凌雲集》の中には、建物内が茶を煮る煙で満ちている様子をうたったものがある。このように茶を搗く、茶を煮るという表現が《茶経》に見られる固形茶の製茶法や飲み方と一致する。
この時日本へ伝わったのは、中国の何というお茶だったのだろう?当時の中国で献上茶であった紫筍茶ではないかと考えることも可能である。
また日本最古の茶に関する史料 《日本後紀》815年 には、この日嵯峨天皇は、現在の滋賀県大津市唐崎に行幸された。一行はそのあと比叡山麓の崇福寺へ、次いで隣にあったとみられる梵釈寺へと向かった。梵釈寺では住職の大僧都水忠が手ずから茶を煎じ、それを嵯峨天皇に献じた。という記載がある。
ここからも当時茶は、煮だして飲んでいたと考えられる。
日本では、遣唐使と呼ばれる留学僧が中国(唐)へ派遣され世界で最進んだ中国文化を学びそれを日本の寺院に持ち帰った。茶と茶文化もその一つである。(www.xing528.com)
当時寺院は総合大学のようなものであり、最先端の文化や技術を発信していた。中国文化は日本人にとって憧れであり、日本のエリートたちが必死にそれを学んだ。
ところで現在の中国で、喫茶文化の起源を探求するためには、私はどのようにすればよいのだろう?日本では総合芸術と言われている茶道を上海で学んでみたいとその道を模索した。
2000年私は上海に渡ってから、中国では茶道とは言わず茶芸ということを知った。そして茶芸師という国家技能資格があることもわかった。
中国語もろくにわからない私だったが、すぐに上海市天山路にある、上海職業訓練学校へ駆け込み茶芸師の勉強を開始した。素晴らしい先生と優しいクラスメートに恵まれた。
そして茶芸の勉強をするうちに、中国には評茶という茶葉の判定をする面白い学問があることを知った。
その同じ職業訓練学校で2000年初頭より初級評茶師班、中級評茶師班、2008年9月開講の首届(第一期)高級評茶師班まで数年間にわたり共に学んだのが陳氏であった。
そう、陳氏と我はクラスメートであった。クラスメートは、男女、年齢様々、職業は中医、会社の幹部など多岐にわたっていた。華麗なる経歴を持つ陳氏は班長に任命された。
陳班長は慈愛に溢れクラスメートの世話をよくしてくれた。初心者の我々とは対照的に、当時陳氏はすでに20年以上紫筍茶の研究をされていた。また外国人である私のことも一切差別なく皆に公平で親切丁寧。授業で習わないお茶の事までも教えてくれた。時には茶葉学会の先生と我々を紫筍茶の生産地まで連れて行き、当時まだ珍しかった農家楽という農家が経営する民宿での宿泊や、工場での紫筍茶の制作工程の見学·体験をさせてくれた。
首届高級班は29名クラスメートそして4名の講師陣と班主任がいた。クラスメートだけでなく講師陣までもが陳氏に敬意を払い、陳老師と呼ぶようになった。陳老師は高級評茶師の資格習得後も、上海茶葉学会内で精力的に紫筍茶を紹介し、上海の茶人たちを産地である長興へ幾度も案内し紫筍茶の知名度アップのために尽力されている。
膨大な種類がある中国茶。
その中で陳老師はたったひとつだけのお茶、紫筍茶を40年もの間追求している。一本筋であるその姿はまさに日本の職人の姿と重なる。
陳氏のことを、紫筍茶マイスターと呼んでも過言ではない。
そして私は、高級茶芸師班受講の際に唐代の素晴らしい詩と出会った。
唐代(唐元和6年) ·仝が良き友人である孟諫議から送られた新茶を煮て飲んだ(当時 茶は煮て飲んでいた)時の想いを詠んだ有名な歌である。
千古の絶唱と称される漢詩
《走筆謝孟諫議寄新茶》
筆を走らせて孟諫議の新茶を寄するに謝す
一碗喉吻润
两碗破孤闷
三碗搜枯肠 唯有文字五千卷
四碗发轻汗 平生不平事 尽向毛孔散
五碗肌骨清
六碗通仙灵
七碗吃不得也 唯觉两腋习习清风生。
(日本語訳)
1杯目はまずのどと口を潤し、2杯目は寂しさをやわらげてくれた。
3杯目は飲むとしぼんだ詩情がよみがえり、文字が5000巻も湧いた。
4杯目を飲むと、軽く汗が出て平生の不満不平はすべて流されてしまう。
5杯目を飲むと、体が清められ6杯目を飲むと神仙の御霊に通じた。
7杯目はもう飲んではならぬ、もう両脇を吹き抜けていく風を感じた。
卢仝は7杯の茶を飲んだ後に、それぞれの違う感覚を描写した。
初めてこの歌と出会った時に、私の頭の中には紫筍茶がまっさきに浮かんだ。少なくても千以上の種類のある中国茶の中からなぜか紫筍茶 が真っ先に浮かんだのである。それには、7つの理由がある。
1)紫筍茶は中国十大銘茶のひとつである。
2)紫筍茶は唐時代 陸羽の進言により中国最初の献上茶となった。(実際には1番か2番か未だ謎である。)
3)紫筍茶の出現と、この詩が詠まれた時代が一致する。
4)紫筍茶は歴史が長く故事も多く、歴史ロマンあふれるお茶である。
5)紫筍茶の見た目は地味だが、お湯を注ぐと透き通るような水色があらわれ、まるで仙人が飲むような透明度の高い茶湯である。
6)紫筍茶は、清々しい爽やかな味わいと、蘭の花のような優雅な香りのお茶で人々の心を解きほぐす魅力がある。
7)陳明楼氏も詩の書くのが得意で、お茶に関する多くの詩を発表している。陳氏が詠んだ中で、私が一番好きな詩。それは、紫筍茶を描写した詩である。
(日本語訳)
雨音を聞くと木魚のような音に聞こえる 翠の芽を見ると筍に似ている
心が無になり、 ただ癒されるお茶がある。
紫筍茶の飲み方は、グラスに紫筍茶の茶葉を投入し湯をそそぎ茶葉がゆらゆら踊る様子をみながらゆっくりと味わい愉しむ。また、最近では緑茶も烏龍茶同様に、可愛いままごとのような小さな工夫茶の茶道具(急須の用途である蓋碗或いは紫砂壺、茶湯の濃度を均一にする公道杯、小さな茶杯)で紫筍茶を煎れることも多い。
日本の友人たちは中国茶芸の様子に目を奪われ、すっかり紫筍茶の魅力にハマっていくから不思議。
陳明楼先生の著書 《紫筍茶縁》の出版により、世界中の人々が紫筍茶に魅了させることを大いに期待しています。
最後に、陳先生の健康と益々のご活躍をお祈り申し上げます。
茶友 日本 佐藤 良子
高山寺是镰仓时代前期由明恵上人(1173—1232年)重建的寺庙,也是日本茶和茶文化的发祥地。据说荣西禅师从宋朝带回茶籽后,明恵上人开始在山里栽培。由于茶叶有醒脑提神的效果,明恵上人经常劝众生饮茶。他还把高山寺的茶苗移植到宇治,之后又在全日本推广种植。中世纪后在栂尾山种植的叫“本茶”,其他地方种植的叫“非茶”,每年向皇宫进贡。
图8-1 佐藤良子与日本茶友举行紫笋茶会
(a)茶艺演示 (b)茶评交流(c)嵯峨御流的井藤东花道为紫笋茶会插花作品
图8-2 佐藤良子在京都高山寺
(a)栂尾山高山寺门 (b)高山寺内的古茶园(c)高山寺碑文 (d)高山寺外墙
免责声明:以上内容源自网络,版权归原作者所有,如有侵犯您的原创版权请告知,我们将尽快删除相关内容。